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2017年5月3日水曜日

2017.05.03-05 矢筈岳

  • メンバー:阪本豪、白石薫平(CL)、中西隆史

5月2日

記録:中西隆史

  • コースタイム:新潟駅9:19--9:56五泉駅10:00--10:35林道終点10:54--14:31木六山--15:30七郎平山--16:50銀次郎山
  • 天候:快晴

0020バスタ新宿でテントポールを忘れたことに気が付きパーティーメンバーに自分のザックを預け帰宅することになった。バス代6700円をドブに捨てタクシーで帰宅してから1万円を払って始発の新幹線で新潟に向かわなければならない自分の情況を整理してみると、この世の全ての不幸を一身に背負ってしまったようなドス黒い陰鬱を感じ、凡そ今から山に登る等とは考えられない気分になった。JR新宿南口改札でビール缶を片手にスケボーに乗ったオッサンに横入りされて陰鬱な気分に遣る瀬無い怒りが加わり、更に帰宅してみるとテントポールは部室に忘れて速やかに駒場まで取りに行かなければならないことを知った末に我の感情は完全に死んでしまった。山が遠過ぎる。取り敢えず寝た。2時間程寝た後に朝5時の電車に乗り駒場東大前でテントポールを回収し連休初日で指定席も取れず殺人的に混雑している0700発MAXとき新潟行き3号車で最後の意志と理性を振り絞り座席を見つけて座り込むとそのまま奈落に引き摺り込まれるように眠り、次に自分の意識の存在を感じたのは新潟駅で車内点検の駅員に起こされた時だった。山はまだ遠い。

新潟駅では何故かダイヤが滅茶苦茶に変更されていて磐越西線会津若松行きを探して右往左往させられたので序でにSLばんえつ物語号の写真を通り魔のように撮影し、夜行バスで到着してから現地で3時間近く待たせてしまっていたパーティーメンバーと合流して磐越西線の車内で9時間ぶりに自分のZERO POINT 70Lと再会、上手く眠れないまま眠気が重く纏わり付いた目蓋の裏と広大な越後平野とを交互に眺めならダラダラと五泉駅に到着した。

五泉駅からはタクシーに乗った。途中のセブン-イレブンのお手洗いで水を汲み当初予定していた悪場峠ではなくチャレンジランド杉川付近の登山道から1055頃に入山したがこれには深い理由は無く、ただタクシーの運転手が悪場峠と言ってもピンと来ないらしく登山道と駐車場のあるこちら側に来たというだけである。ここから木六山までは水無平まで一度迂回して尾根に上がる道といきなり急登を詰めていく道との二つがあったが、最初から張り切って無理をすることも無かろうと前者を歩くことに決まった。空は明澄で陽射しは強く山は青々としていて間違いなく登山日和であり、久々の夏道登山道を歩くということもあって歩き始めから楽しくなり、やがて山に居るときに特有の爽やかな昂揚と山に登らない人々に対する優越感とを徐々に思い出していき、1ピッチ目の休憩の頃にはすっかり呪いのような眠気から解放されて精神の本来の快活さを取り戻していた。1205に二人組の年配の男性登山者が休憩する水無平を通り過ぎ稜線に上がり今度は三人組とすれ違った。2ピッチ目の後の休憩では我の直ぐ傍で蛇が出て、「山蛭、蝮、虻、藪蚊、山壁蝨の群棲する河内の峰や谷」と云う日本登山大系の記述に近付いているのを感じ、明日以降の行程に就いても胸の中で期待は高まる一方であった。ここら辺から道に雪も付き始めたが気温は高く既に汗で体はベトベトになっていた。その後尾根を一度外れてしまったせいでルーファイに梃子摺り最終的に藪を掴んで急な斜面を上がり雪上を詰めて尾根に復帰し木六山に着いたが幾らか時間をロスしてしまった。尾根に復帰出来れば多少風が当たって涼しくなることを期待したが暑さは軽減されるどころか益々体に纏わり付くようになり、その為に休憩中はつい水を飲み過ぎてしまうので、体の渇きと行動水の不足に対する心配とのジレンマに苛まれ、このジレンマの分だけ余計に体が渇きを感じさせられているような気がした。1430を過ぎて木六山に着いてもまだこの日の目的地である五剣谷岳の肩は見えなかった。明日矢筈岳を踏む為には今日は日が沈むギリギリの時間迄歩いて少しでも距離を稼ぐ必要があったので、パーティー一同18時までの残業を決意した。この辺鄙な山域に二度と来ることは無いだろう、ならば今回の山行で全てを達成しなければならないという鋭い決意である。しかし、七郎平直前の雪で丸ごと覆われた斜面で水を汲んで上がりその山頂の西から巻き気味に通り過ぎた1530頃には衰えを知らない暑さとは対照的にその決意は鋭さを失っていった。鋭さが失われていくと脚が攣った。左脚の膝から腿にかけて球のような凝りに関節の稼動を妨害され、更にここに来て睡眠不足が強烈に主張を始めたせいで、数歩歩く毎に、凝りを多少でも解し重くなる目蓋を持ち上げ直す為に歩みが止まった。疲れていた。


銀次郎山到着

1650に銀次郎山頂に到着した。銀次郎山頂もしっかり雪で覆われていて、他の登山者がテン泊したような痕跡が見受けられた。白石が山頂から先に下って偵察したが、ここを通り過ぎるとテント適地迄は距離がありそうだと報告し、疲労と時間とを勘案した結果銀次郎山頂でテン泊となった。山頂で記念写真を撮り、膝下ぐらいの高さの藪の脇の少し広くなった雪面にザックを下ろした。ザックを下ろすと途端に歩くことが面倒になった。ザックの中で水が漏れて中身がビショビショになっていたのも、主な装備は防水していたとはいえ、消耗した精神に更なる疲れを付け加えた。兎に角早くテントに入って休みたかった。スコップで斜面を均してテントを立て、中に入ってポリ袋に集めてきた雪を融かして水を作って漸く一息付いた。阪本は転寝していた。ギリギリまで軽量化を達成する為に、水作りも湯沸かしも単一の小コッヘルで行い、加えて我と白石は個人用バールも装備から削ってアルファ米の入っていた袋を食器代わりに用いた。アルファ米の袋を皿にして夕食のアルファ米とベーコンを食べると、単にエネルギーが補給されたという生理的な要因だけでなく、食器まで軽量化の為に省いたストイックさが確認され、出発前のこの山行に掛ける期待と覚悟を思い出し、暑さと疲労と睡眠不足と腿の攣縮とのスクラムに押し潰されそうになっていた我の心に再び弾力を吹き込んできたように感じられた。我々の今回の山行形態は縦走ではなく漂泊である。態々漂泊と銘打ってゴールデンウィークに山と高原地図にも無いような標高千数百メートル一寸の山域にその身を放り投げたのは、このようなタフな山行を味わいたかったからであり、更に云えば明日以降銀太郎山を越えて登山道が失くなってからが本番である。ここで挫けてる訳にはいかない。明日以降の行動に就いて相談し、青里岳から矢筈岳を空荷で往復4時間以上と見て午前中に青里岳に着いてテントを張ることが必要条件であることを確認して就寝した。あれだけ我々を苦しめた暑さも夜にはその面影を完全に潜め、3シーズン用シュラフのみではやや寒く感じられた。眠りは浅かった。明日以降はタイツを履いて寝ようと思った。

5月4日

記録:阪本豪

  • コースタイム:3:00起床--4:20出発--5:28銀太郎山--7:00五剣谷岳--10:30青里岳11:15--14:00矢筈岳--16:50帰幕
  • 天候:快晴

3時に起床した。トイレに出てみると、綺麗な星空である。さっとラーメンを食い、明るくなるのをしばし待つ。明るくなったところで撤収し出発した。銀太郎山までは一般登山道であり、雪面と道が交互に現れる。銀太郎山からが藪道となるが、五剣谷岳までは入山者数も多いようで比較的広めの踏み跡が付いていた。五剣谷岳ピークを越えた標高1150m付近が幕営適地となっていて、5張ほどのテントがあった。マイナー十二名山のはずなのに、とやや残念。以降は踏み跡も薄くなり、雪面を登り、藪を漕ぎ、雪面を下り、藪を漕いだ。どこがどこやら覚えていない。もうすぐ青里岳かという登りで中年男女6人パーティに出くわした。地元の山岳会のようで、聞くと矢筈岳を目指していたが青里岳から先の濃い藪を見て引き返して来たとのこと。粟ケ岳を目指すと言うと驚かれた。


ずっとこんな感じ

青里岳を踏み、幕営適地に腰を降ろして思案。南に望む矢筈岳は遠く見え、ペースを考えると山頂を踏めなくてもおかしくない。とすれば①明日の下山を見越して少しでも粟ケ岳に近づく②疲れたからここで幕営③やはり空荷で矢筈岳を目指す、のいずれか。しかしピストンとなれば荷物の軽さは段違いであるし、山行計画書に書かれた本山行の目的は矢筈岳の登頂で、何より我々は岳人である。強く生きよう。テントを設営してアタック装備を作り、出発した。

青里岳直下は聞きしに勝る藪であるが30分ほどで抜け、楽な雪面歩きが続く。アイゼンなしでも難なく歩けるのは夏の雪渓歩きの賜物か。この山域では東西に延びる稜線の東側斜面に雪が残っていることが多く、冬に西風が卓越するのだろうかと予想した。2ピッチの雪面藪ミックスの末、矢筈岳の肩に到着した。この先は遠目に見てもかなりの藪だったが、踏み入ると想定以上で苦戦を強いられた。この辺りで矢筈岳を踏んで帰って来た男女ペアのパーティに出会った。聞くとテントサイトは五剣谷だというので帰幕できるのか心配になる。とにかく我々は藪を漕ぎ、14時ジャストに山頂を踏んだ。喜んで記念撮影を互いにしていると、古びた木の看板の裏にTWVの文字が刻まれていることに気づき、なんとも複雑な気分になった。帰りはただひたすらテントを目指すのみ。先ほどの二人を追い越し(ビバークするそうだ)、17時前に帰幕した。ぐっすり眠った。


矢筈岳

5月5日

記録:白石薫平

  • コースタイム:3:30起床--4:25出発--8:30三方ガリ--11:40堂ノ窪山--13:55一本岳--14:44粟ヶ岳15:05--16:45林道終点--17:40八木ヶ鼻
  • 天候:晴、午後は散発的に西から雲が流れる

昨日は3時に起床したが、出発前に明るくなるまで少し待ったので、その反省を生かして今日は3時半起床。昨日同様ラーメンを食って、4時半前に出発。朝一から藪漕ぎで、ワイルドな1日の始まりであった。30分近く灌木と格闘し、雪渓に出た所で休憩する。ここが、青里岳山頂から伸びる市境が北に折れる箇所である。我々も同様に北進し、藪を少し下り、再び雪渓に入る。ここから1時間程度は、平和な幅の広い雪渓を歩く素晴らしい時間だった。しかし、そんな楽しい時間も長くは続かない。三方ガリ(986高点)のいくつか手前の小ピークから藪が濃くなり、忍耐の時間が続いた。この付近での私のメモには「ヤブ、ヤブ」と残されている。遥かなる粟ヶ岳を仰ぎながら、互いの姿も見えない藪をかき分ける時間は、日射もあってか気が遠くなりそうだった。


唯一の平和な時間

それでも、50分歩いて10分休むというペースを淡々と守り続け、11時頃には堂ノ窪山へ向けて雪渓の登りに入った。この時3人で話し合い、まだまだ気力は残っているので、予定幕営地であった堂ノ窪山より先に進めるということで意見は一致した。この2日間共17時近くまで行動していたため精神的な閾値が上がって(下がって?)おり、明日に重労働を残したくないという思いもあったので、誰も不平を言う者はいなかった。堂ノ窪山山頂は素通りし、藪の下りへと入る。ここで先頭を歩いていた阪本が、少しだけ道形が感じられると発言。確かに、何となく藪の密度が異なるような気がした。堂ノ窪山からコルまでは藪に阻まれ、下降だというのに30分以上を要する。このコルから登り返すと1060高点の平坦地だが、時間的にまだ行けると、ここも素通り。平坦地から少し進んだ所で休憩し、どんどん近づいてくる粟ヶ岳を見ながら、このペースなら今日中に粟ヶ岳を越えて下山できるのではないかと3人で盛り上がった。

そして雪の尾根を歩き、1240mの一本岳に登頂。一本岳山頂には標柱があり、急に下界が近づいたようであった。粟ヶ岳までは登山道が伸び、一本岳への登りの途中にはカマボコ型の資材置き場のような構造物があった。一本岳からの下降道は切り払いがされ、急傾斜箇所にはタイガーロープが渡してあった。これまで藪を伝いながら登降してきたので、眼前の露出感が逆に恐怖心を感じさせた。この道を下っている途中に、これから登る斜面の右側でブロックの崩壊が起こった。この山行中、雪渓崩壊の音は何度も耳にしていたし、遥か下方で崩壊するのを見てはいたが、目の前で見ると人間などひとたまりもないことがよく分かり、肝を冷した。

一本岳と粟ヶ岳との鞍部からの登りは、中央部に藪が露出しており、その遠い右方で崩壊が発生し、その左方の雪渓を我々は登路とした。目の前で崩壊を見た直後だったので、一人一人間隔を空けて登った。その後は緩やかな雪渓を歩き、ついに粟ヶ岳に登頂。広大な山並みを眺め、それを歩いてきた感慨に浸った。山頂では6人程のパーティーが宴会を楽しんでおり、我々は今日中に下山できることを確信した。


良い表情です

粟ヶ岳からの下りは一級の登山道。これまでとは打って変わって地面が固く、雪渓付近の土は滑り易くなっているのが印象的だった。行動開始から12時間半で林道入口に到着。久々にアスファルトを踏んだ。

八木ヶ鼻の集落までは五百川(いもがわ)の棚田を眺めながら歩いた。夕焼けに染まる八木ヶ鼻の岩壁を眺めると、田んぼから蛙の声が聞こえてきた。心地良い疲労感が全身に行き渡った。下界では就活や院試が待っているが、山に賭けたこの3日間は人生の時間の使い方として間違っていない。そんな信仰とも言える思いを胸に、街へと戻っていく境界の時間を、この美しい棚田に囲まれて過ごしたのである。

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